この記事で投稿数が百になる。
 何も書くことがない時に書くとどうなるのかなと思って半年前にはじめたブログだった。
 結局百個の記事ができた。
 学んだことがひとつあって、書くことがないという状態は常に一時的なものだということ。
 書くことがあるという状態も一時的なものだということ。
 あったりなかったりする。当たり前だけれども。
 だから書くことがない状態をそこまで重大視することもなかったなと思う。
 書こうと思えばなんでも書けた。

 自分が書いた文章が面白くないという状態も一時的にあった。
 自分が書いた文章が面白いと思うことも一時的にあった。
 書いている時には面白くても読み直すと面白くないこともあった。
 面白いとか面白くないとか関係ないと思ったこともあった。
 面白いことが一番大事だと思ったこともあった。
 色々な状態があって、どの状態も一時的なものだった。
 そして未来の状態は常に予測不能だった。
 自分の文章が面白いかどうかは、自分のために書いている限り、決まった価値のない感情で、面白かったり面白くなかったりして不安定なので、面白くないと思った文章でも書いた方が良かった。
 何故なら、面白くないと思いながら書いた文章があとから面白くなることがあるから。

 今回のブログで学んだことは、大体そういうことだった。
 結構楽しかったなあと思う。
 このブログは1月23日で終わると最初に決めたので、23日になったらブログは消えます。
 更新自体はこの百個目の記事で、キリも良く終了としようと思う。
 ブログを読んでくださった皆さん、スターをくれた皆さん、コメントをくれた皆さん、ありがとうございました。
 うれしかったです!

 

エンターテイメント

 どうして生きているのだ私は。おかしい。何度考えても私は死んだはずなのだ。あの日あの時あの場所で、私の魂は粉々に砕け散って銀河誕生おめでとうみたいな感じになって、大いに涙を流し、顔に化粧水を塗布し、部屋の中をうろうろ歩き回り、戸棚から酢だこさん太郎を二三枚ひっぱりだしてビニール包装を指先でぎちちと引き裂きすっぺぇすっぺぇタラの干物みたいなやつをがしがし噛んで銀河大星団の中心、センターオブスペースことネリリのことを考えては胸をかきむしって悶絶絶倒し「シャイニング」と何度もつぶやくハメになった。私は思い出さなければならない。どうして私が生きているのか。もし思い出すことが出来なければ、この人生は死んでいるも同然だ。
 私はパソコンに接続してあるコンデンサーマイクをはっしとつかみミュートをオフにして録音プログラムを起動しプログラム内の赤い丸ボタンをクリックして話しかける。
「私が目覚める前の最後の記憶について話そう」声の強弱がぎざぎざの波形になり右から左に流れていく。私の声は横隔膜より生まれ、私の声は減衰して空気の中に死んでいく。すべては流転する。流転するのは仏教だけか? わからない。わからないけれどセキセイインコのピピッピは私が小学五年生の頃、鳥かごから出した瞬間開け放たれた窓に一直線に飛んで行って二度と帰ってこなかった。私はその時も無垢な小動物に裏切られた悲しさのあまり発狂寸前にまで追い込まれ、真夜中の二時に合わせ鏡をして、無限に続く己のしけた顔を眺めながら霊的な現象が起きて私を別な世界に引きずり込む異界の住人が現れまいかと待ちに待ったが、しけた顔がどんどんしけていくばかりで埒が明かず、腹立ちまぎれに服毒自殺を図り、お父さんが愛用していたDHAのカプセルを危険な薬だと思い込んでありったけ飲み込んだけど死ななくて、その晩はちゃんと寝たんだけど翌朝おしりがすごく魚臭くなって、本当に自分は死ぬんじゃないかと改めて恐怖したのだが、お尻が魚臭くなったのはDHAに魚油が含まれているからで、分解されなかったそれがなぜか尻からあふれてくるというみじめな体験をしたのだが、DHAのおかげか今も頭脳は明晰で、掛け算や割り算の計算なら二桁までなら暗算も可能です。もしあの時DHAではなく、お母さんが愛用していたコーラックを飲んでいたら? 私はおそらく本当に死んでいただろう。あるいはおしりから魚油以上にまがまがしいものがあふれただろう。それは社会的な死を意味する。人生とはいつも奇妙なものだ、何度も死にかけ、あるいは死の可能性に脅かされながら、それでもどっこい生きている。人間は強い。人間の生きる力は本当にすてきに強い。でも時々はなんでそうなったのか分からないくらいあっという間に死んでしまうこともある。シワブキネリリのように。
「ネリリは強弱のある女性だった」と私の波形は抑揚を欠いている。正気と狂気のフラットライン。私はマイクをミュートにして「シャイニング」と呟く。それから再びミュートを解除して希望の話を始めようとする。希望。愛。友和。協調。自立。克己。AからBへ。BからCへ。私とネリリのばらばらのフラグメントをより合わせてランチョンマットを作ろう。ランチョンマットにまだ誰も見たことがない花の刺繍をしよう。突然どこかで爆弾が爆発した轟音が頭の中でばーん、どーん、ぎゃわわわと響いて私とネリリは一本の巨大な木を眺めて立っていた。目を凝らし、獲物を探していた。私はとっくに飽きていて早く帰りたかった。帰ってがりがり君を食べながらテレビゲームに興じたかった。でもネリリは汗を流しながら木を眺めて岩のように動かない。その横顔は呆けているようにもにらんでいるようにも見えた。私はネリリの腕に平手打ちをした。それからスネを平手打ちした。ばしん、ばしん。ネリリは蚊に食われてあちこち腫れていた。ネリリは生まれた頃からすこし人間を辞めていた。こうして動かない時のネリリは弱いネリリだった。生のざわめきがまるでない、死んだようなネリリだ。私はネリリに平手打ちを続け、時々は巨大なフキを引っぱって遊んだ。
「みつけた!」とネリリは突然叫ぶ。驚いた私はフキを強く握りしめる。フキから謎の液体がじゅわっとあふれる。「ごらん、あれが黒いダイヤだよ。時価数百億円のオオクワガタだよ」
 やった、と私は思った。大金持ちになれる。ガリガリ君を倉庫ごと買える。もう学校にも行かなくていいし欲しいゲームはすべて手に入る! ちくしょう! 生まれてきてよかった! なんて射幸心をあおる生き物なんだオオクワガタって! ちくしょう!
「捕まえよう!」私は巨木にキックして揺らそうとした。しかし大木はまるで意に介さず堂々と私の前に立ちはだかった。何度蹴っても同じだった。私は悔しくなってわめいた。「あれはオオクワガタじゃないよ。きっとゴミムシだよ。もうあきらめて帰ろう。僕たちのような子供には過ぎた獲物だったんだ」
「帰ってもいいよ。私はあきらめない。あれはゴミムシじゃなくて絶対オオクワガタ。時価数兆円の黒いダイヤに決まってる。今ここであきらめるような人間は、これから何をしたって絶対に絶対に成功しない。死ぬまで落伍者だよ。誰にも愛されない。誰も愛せない。主食はパンの耳。死んでるんだか生きてるんだかわからない顔をして生き続けるクズよ」
 ネリリはいつの間にか強いネリリになっていた。強いネリリもまた人間を少し踏み外していた。でも強かった。
「私のキックは強い。覚悟の重さが違うから」
 そう言ってネリリは大木を蹴った。大木はびくともしなかった。彼女を鼻で笑おうとしたその時、急にめまいがして立っていられなくなった。いや、そうではない。めまいがしたのではなく、地面が揺れているのだ。とんでもない大地震だ。ネリリも尻もちをついて呆然としている。大木は激しく揺れ、鳥たちが一斉に飛び立った。爆弾の爆発はまだ続いている。ぎょばばば。ずっとだ。最初からずっと爆発の中にいる。ああそうだ、あの夏はいつも爆弾が落ちてきたように騒がしかった。ニュースで取り上げられるくらいだったもの。私ネリリは尻もちをついたまま呆然としていたが、あまりにも激しく揺れる木がみしみしと嫌な音を立てた時にはおぼつかない足取りで転がりながら逃げ出した。大木は根元からぼっきりと折れ、巨人が倒れるようにゆっくりと地面に向かって傾いていく。私とネリリは遠くからその光景を眺めていた。見ていることしかできなかった。
 地震が収まり、私が我に返った時にはもう、ネリリは走り出して大木に飛びついていた。そして右手に光り輝くオオクワガタを持って、それを高く掲げたのだった。
「ほら、獲ったよ。オオクワガタだよ。本物のオオクワガタだったんだよ! 諦めなければ夢はかなう! 私はそれを自分の力で証明したんだ!」
 ネリリは輝いていた。倒れた大木の上で黒いダイヤを掲げる姿は神話の女神のようだった。私は自分が情けなかった。でもそれ以上に、ネリリをたたえようと思った。君はすごいやつだと。
 私はネリリの隣に立ち、彼女の功績をたたようとした。
 その時、ネリリのきらきらと輝く横顔に蚊が止まっているのに気が付いた。
 私は彼女の横顔にいつもの平手打ちをくらわした。
 ネリリは死んだ。
 爆発のような蝉の声が鳴りやまない、夏の事だった。

 おお神よ。人間は強い。人間の生きる力は本当にすてきに強い。でも時々はなんでそうなったのか分からないくらいあっという間に死んでしまうこともある。わからない。ネリリを殺したのは私なのか? ネリリの死因は心臓発作だとされた。しかし私はネリリの死に囚われた。あの日あの時あの場所で私もまた少し死んだのだ。少し人間を辞めたのだ。私はネリリをよみがえらせる研究を始めた。毎日DHAを飲み続け、パンの耳を食べ続けながら、失敗に失敗を重ね、誰にも愛されず、落伍者としての人生を歩んだ。でもネリリはひとつだけ間違っていた。私はネリリを愛していた。
 長い長い研究を続け、私はひとつの結論を導き出した。死者を蘇らせることはできない。絶望した私は勢いで自作の電気椅子を作り、自らを死刑にすることにした。頭に電流の流れるヘッドセットを装着して、手元のスイッチをオンにする。ばーん、どーん、ぎゃわわわ、どこかで爆弾が爆発している。そして目の前に広がる宇宙銀河大星団。その中心に立っているのは、あれはネリリだ。私は私の走馬灯の中に人生を再生する。夢と現実の狭間で、私とネリリはあの大木を見上げている。
 強い衝撃を感じて、椅子の横で私は目覚める。
「シャイニング」と私は呟く。
 なんにも思い出せないけれど、きらきらしたものが私の中にある。

 

 おわり

 

この物語はフィクションです。実在の人物、団体、事件等とは一切関係がありません。

書いておきたいこと

 大したことではないんだけれど、書いておきたいことが三つある。
 親切さとかわからなさとか不器用さのことだ。
 いつものように、あまり面白い話ではないし、エンターテイメントでもない。
 ただ書いておきたいことだ。

 バーベキューをすることになって、友人二人と私は待ち合わせをして公園に向かった。
 公園の事務所で許可証を買って、決められた場所にコンロを設置する。
 木炭を設置して付属の着火剤を燃やした。炎は燃え上がり炭はぱちぱちと音を立てた。
 炎が収まったのを見計らって網の上に肉を置く。
 しばらく網の上に伸びたままの生肉を三人で眺めていた。
 春のようにあたたかな陽ざしが我々をぽかぽかあたためた。
 時々肉をひっくり返してみる。けれど生肉は生肉のままだった。 
 どうやら炭が上手く燃えなかったらしい。奇跡でも起きない限りバーベキューにはならない。
 我々は生肉をしきりにひっくり返しながらビールを飲んでいた。一種の現実逃避だ。 
 そのうち現実に目覚めた誰かがコンビニに燃えるものを買いに行こうと言い出した。
 私ともう一人が買いに行くことになった。コンビニは公園のすぐ近くにある。
 コンビニは賢いので、油の染み込んだおがくずの塊を売っていた。
 我々のような着火能力の低い者に対する救済措置だ。
 私は着火剤と新聞紙をカゴに入れた。それからおにぎりとゆで卵を保険として買うことにした。
 カゴをレジに持っていくと、店員の女性がてきぱきと商品のバーコードを読み取る。
 すべてのバーコードを読み取った女性は、商品を一瞥して、ぼそりと呟いた。
「おにぎりと卵、別の袋に入れるね。なんかやじゃない? この着火剤と一緒の袋だと」
 いきなりだったし、ぞんざいな口調だった。でも、親切で、人間だった。
 ありがとうございます、と私は言った。
「あたしが嫌なだけだから、気にしないで」

 〇

 平日の昼間だったから、街にほとんど人がいなかった。
 私は赤信号が青に変わるのを待っていた。音楽を聴きながら車が流れていくのを見ていた。
 信号が青に変わった時、目の端に不自然なものが見えた気がした。
 横断歩道の向こうで、人が倒れた。目の前で膝をついて、次の瞬間には地面に崩れ落ちた。
 彼の横には白杖が転がっていた。
 きちんと見ていたわけではない。けれどおそらく何かにつまづいたか、電信柱にぶつかったのだと思う。
 私が横断歩道を渡りきる前に彼は立ち上がるだろうと思った。私もよくエスカレーターで転ぶし、階段で足を踏み外す。
 転んだら、何もなかったような顔をして立ち上がる。そして歩き出す。周りの人間は私を見て笑うか、あるいは無関心を示す。
 失敗に対する無関心は、ある種の慈悲だと思う。保身でもあるだろうか。慣習だし、おせっかいに対する恐怖でもある。
 倒れた人間の周りに群がっている人間が私は少し嫌いだ。何もしないなら無関心でいてくれた方がありがたいとすら思う。
 彼は倒れたまま両手で顔を覆っていた。そのまま身動きをしなかった。私が彼の横を通り過ぎる距離になっても、彼は立ち上がらない。
 彼のことを遠くから見ている人が私のほかに三人いた。一人は青年で、あとの二人はカップルだった。
 誰かが助けに行くだろうと思った。あるいは彼が自力で立ち上がって去るだろうと思った。
 私は彼の横を通り過ぎ、しばらく歩いたあと振り返った。彼はまだ倒れていて、誰も助けには行かなかった。
 来た道を歩いて戻る。往来に倒れたままの彼の後頭部に声をかける。
「大丈夫ですか?」
 彼は鼻をすすった。答えはなかった。
「大丈夫ですか?」
 かける言葉がみつからなかった。私は倒れている人に言葉をかけたことがなかった。
「大丈夫です」
 と、彼は答えた。彼はまた鼻をすすった。泣いていた。
 大丈夫じゃないに決まっているだろう、私は馬鹿なのか、と思った。
 全然大丈夫じゃない。
 私は大丈夫ですか?
 大丈夫だったことなんて一度もない。
 最初からずっとわからない。

 〇
 
 お弁当をくれる人がいる。
 G事業部の誰かだ。若い男性のこともあれば若い女性のこともある。
 私が仕事をしていると、どこからともなくやってきて隣に立ち、
「あの、お弁当が一つ余っているんですけど、もしよかったら……」と言う。
 私は頭を下げて「ありがとうございます」とか「いただきます」と言う。
 断ったことは一度もない。私が断るとおそらくお弁当は廃棄されてしまう。
 私はお弁当をもらうけれど、私以外の人がお弁当を食べることもある。
 食べると言った人が結局は食べないこともある。そういう時は悲しい気持ちになる。
 なので最近は私が貰って私が食べることにしている。
 だからかもしれないけれど、私はお弁当貰う係のようになってしまった。
 G事業部の人もあげる係が決まってしまったようで、最近はいつも若い女性がお弁当をくれる。
 彼女はおそらくその係を誰か偉い人に任せられており、業務の一環として行動している。
 だから彼女自身は、特に私にお弁当をあげたいわけではない。
 私自身も、特にお弁当をもらいたいわけではない。昼食はいつも買ってある。
「あの、お忙しいところすみません……」と彼女は言う。気まずそうだ。
 私は彼女の顔を見ただけで「あっ、お弁当だ」と思うようになっている。
 でも「あっ、弁当ですか! いつもありがとう!」とは言えない。そんなことを言ったら私が彼女を「お弁当の人」だと思っていると勘違いされてしまう。まったく勘違いではなく、むしろお弁当の人なのだけれど、お弁当の人という称号はおそらく彼女にとって不利益だ。それにもしかしたら、ものすごく低い可能性だけれど別な用事があるのかもしれない。
 だから私は「はい」と答え、顔を向ける。
 彼女は「お弁当があるんですけど、向こうに置いてあるので」と愛想笑いをして向こうを指差す。
 その気遣いがいつも気の毒だ。弁当なんてどうでもいいに違いないし、わざわざどうでもいいことで他部署の知らない人に話しかけたくないはずだ。それにたぶん彼女は私がそれほどお弁当を欲しがっていないこともわかっている。ただ慣習となって弁当の譲渡は意味もなく続いている。意味もなく続いてはいるけれど、私はそれを表情に出したくはないし、適当に扱いたくもない。
「ありがとうございます、あの、すみません」と私は小さくなって言う。
「いえこちらこそすみません」と彼女は愛想笑いをして言う。
 もう何に感謝しているのかわからないし、何に謝っているのかもわからない。
 彼女は気まずそうにやってきて、持ち主の分からないお弁当を不器用に渡して去る。
 その姿を見せられたら、お弁当貰う係の私が、やはり食べなければならない。
 そうでなければ、何かが傷つけられてしまう。
 それはたぶん形骸化した良心のようなものだ。もう意味を為してはいない良心だけれど、その死体を辱めたいとは、誰も思わない。
 

甘くも苦くもない

コーヒーを飲んでこなかった。
 飲む機会があるとすれば、コーヒーが好きな人との付き合いの上で、ちょっと飲んでみるくらい。
 子供の頃は苦みが好きではなかった。大人になってからは具合が悪くなるので積極的には飲まなかった。
 コーヒーに含まれる何らかの成分のせいで、胃がもやもやしてしまう。
 味に関しては好きでも嫌いでもない。飲むときは飲むけれど、普段は飲まない。
 そういう距離感の飲み物は、コーヒー以外には無い。

 ずいぶん寒くなってきたから、スコッチを一本買った。
 真冬にビールは身体が冷えるし、ビールの世界観は冬の静謐さと真逆の騒がしさだ。
 風呂上がりにウイスキーをちょっと舐めるくらいが冬にはちょうどよいだろう。
 そのうち飲もうと思っていたスコッチは、棚の上に突っ立てたまま触れていない。
 緑色の瓶が目に入るたびに美味そうだなと思うけれど、あの濃い味を想像するだけでお腹がいっぱいになる。
 見ているだけで十分だった。

 冬の酒について考えているうちに、不意にコーヒーが飲みたくなった。
 茶でもジュースでもなくあたたかいコーヒーが飲みたい。
 コーヒーが飲みたくなっている自分が珍しい。せっかくだから試してみようと思った。
 スーパーで瓶入りのインスタントコーヒーを買って帰る。
 雪が降りそうなくらい寒い夜だった。

 マグカップに粉を振ってお湯を注ぐ。
 香ばしいよい匂いがしてなにか懐かしい。
 わが家には砂糖もミルクもないから、何も手をくわえずにコーヒーを飲んだ。
 適当に淹れたコーヒーは、甘くも苦くもない。
 飲みやすくもないし、個性的でもない。
 誰かの好みに合わせてあるわけでもない、愛される工夫が何もない。
 
 このコーヒーは好きだなと思う。
 なあんにもかっこつけてない寝起きの顔のコーヒーを膝に乗せ、ニュースを眺めているうちに、すっかり気が抜けて眠くなってきた。
 大きなトラックが風を巻き上げて走り去っていく音が聞こえた。
 世の中では、毎日様々な事件が起きていた。
 何もかもがすごく遠くにあるように感じた。
 海底にはり付いている平らな魚みたいに落ち着いて、ぼんやりしてしまった。
 

ヒーロー

 ヒーローのアニメを40話まで見た。
 様々なヒーロー志望者がプロヒーローを目指すストーリーだった。
 ヒーロー志望者は生まれつきユニークな能力を与えられている。
 他人と似ている能力もあるし、全然使い道の無さそうな能力もある。
 とにかく何らかの能力を持っていて、その能力の使い方を学んでいく。
“競うな、持ち味をイカせッッ”は範馬勇次郎の言葉だけれど。
 登場人物たちは持ち味を生かす方法をすごく真剣に探している。
 面白いなあと思う。
 このストーリーのよいところは、テーマの意味しているところが、私に生かすことができるのではないかと考えさせてくれるところだった。
 どんな人間にだって何らかの能力がある。
 それは一見、何の使い道もない能力かもしれない。
 けれど持ち味を生かすことで、少しは人の役に立つかもしれないよ、という風に言われているように感じる。
 主人公は生まれつき何の能力も持っていないモブのようなキャラなんだけれども。
 諦めずに努力していたら、突然能力を与えられることになった。
 諦めずに努力していたら、というところがポイントで。
 諦めずに努力を続けることが出来ること自体が一種の能力でもあった。
 ありのままの自分でいいんだ、という言葉をどこかで聞いたことがあって。
 私は時々その言葉を信じている。
 しかし、ありのままの自分があまり社会に必要のない自分だった時。
 それを肯定していいんだろうか? と考えてもいた。
 もし、ありのままの自分が、他者にとってすごく嫌なやつだったら。
 それは自ら否定しなければいけないのではないか?
 道を踏み外したままの自分を肯定したら、最後には魔王になってしまうのではないか?
 ニーチェは自分の中にたしかな価値観のある人間を超人と呼んだ。
 超人って、ヒーローだ。
 何が正しいのかを分かっていることがヒーローの前提なのだなあと考えた。
 自分の能力を良く生かすために頑張ることは正しいと思う。
 それは大それたことではなくて、すごく小さい向上心でも同じだった。
 最近、後輩の人が「モテたいです!」と言うようになった。
 私はそれをすごく良いことだと思っていた。
「僕はモテないので、モテないままでいいです」だったら、何も変わらないのだものな。
 社会に対する憎悪とかを募らせていると、めちゃくちゃつらいと思うから。
 ヒーロー目指して楽になっちゃえばいい。
 自分は前に進んでいるんだ、という感覚は、新しい一歩を生み出すし。
 自分は誰かの役に立っているんだ、という感覚は、たとえそれが偽善でも。
 偽善に助けられたこともあると思うし。
 無知の知があって、無用の用があるなら、偽善の善もあるはずだから。
 善いこととか、良いことを、恐れている場合ではなかった。
 好きなことややりたいことをして生きるのが一番よいと考えてきたけれど。
 好きなことややりたいことが良いことなのかを考えてみることも時には大切だなあ。
 と、アニメから学びました。