本屋と勇者

 K寺の本屋4軒、O窪の本屋4軒、制覇する。
 ボスを倒して洞窟を抜けてさ新しい町に着いたら、まず武器・防具屋に行って新しい装備の価格を調べるでしょう。思い返せばそれが、アールピージーのクライマックスだったように思う。新しい町の、新しい装備。それは新しいルールであり、新しい効率だった。私が架空性のキャラクターとして「町」に介入できるのはお店だけだったから、お店でモーニングスターやはがねのよろいを売買する事でしか世界を感じられなかった。どんなものにも触れることができず、どんなものにも影響されない、いつまでもきれいなままの不毛な感受性。けれどたしかにあの頃は楽しかったし、新しい装備をみつけるついでに世界も救っていたから、誰も困らない。勇者は職業の名前で、性格ではないし、ルールでもないからパーティーに盗賊がいても許されるのだよな。魔王を倒す人を勇者と呼ぶだけの話で、善人性は必須要素ではなかったから、人の家のタンスを勝手に開けて中身を持っていってしまうし、勇者を通して盗みを働く私は薬草を得る代わりにモラルを失っていった。高すぎるモラルは生きづらさを生むのだ、とアールピージーは教えてくれる。生きたければ他者を破壊するがいい、と。モンスターの血を浴びるほどにレベルは高くなる。魔王にちかづいていく。魔王は裏切られた勇者そのものだ。

 新しい街に着いたら新しい本屋が待っている。本屋にはだいたい同じような本しか売っていないけれど、評価の定まってしまった名作やトレンドを除いたところにユニークな本屋の個性があって、女性向けの本が多かったり、音楽関係の棚が広かったり、翻訳書が充実していたり、特色をつかんでゆくだけでも面白いし、どういうお客さんが多いのかとか、どんな場所にあるのかとか、本屋自体の面白さが好きだった。おそらく本屋さんであれば、パンを売っていようがそばを売っていようが、かまわないのだ。売っているものがどんなものであれ、そこが本屋であれば好きになることができると思う。K寺の本屋でパッカブルトートバッグを買ったのは、だからなのだ、と私は考えている。パッカブルトートバッグは、小さく折り畳むとポケットサイズの四角いザブトンみたいになる便利なバッグだが、不器用な私はパッカブルがうまく出来ず、パッカブルトートバッグのパッカブル性をまるで無視した運用になりがちだとしても、それが本屋で買ったものだという気兼ねの無さが、いつでもビジネスカバンに突っ込んでおける気安さに繋がっていて、いわゆるエコバッグを私のような横着者が持ち歩くようになったのは本屋が面白いからだった。

 新しい街の新しい本屋は、私の冒険の一番の目標だった。本を買わなくても、それは変わらないのだと思う。

 

 

おぼろな日常

 ゲーミングモニターを買って、残像がなく、発色も良いので満足しているのだけれど、モニタの後ろに鎮座するふつうの冷蔵庫が「ぽんっ」と鳴った弾みで完全に消灯する。電圧の関係だと思われるのだけれど、同じような症状に今まで出会ったことがないのでひどく面倒になり、ついたり消えたりする上等なモニターで、それほど綺麗でなくてもよいテレビジョン・ニュースのダイジェスト配信などを見て、一日が茫漠とした印象のまますうっと消えていくように感じているのは、8月が異様に忙しかったからで、気持ちや感情や「一日の印象」にも慣性があることが分かる。ある種の刺激を受け続けると、刺激がある状態が通常であるように感じられる、という状態とでもいえばよいのか。そんなことよりも、なぜ冷蔵庫が「ぽんっ」と鳴るのか、そちらの方を、もっとずっと以前に、具体的に書くなら、冷蔵庫が家に届いた時点で気にかけるべきだった。シャンパンのコルクを抜くときみたいな「ぽんっ」という間の抜けた軽快な音が、一定周期で冷蔵庫から鳴り響き、一体何を祝っているのか知らないが、どうも祝祭ムードなのだった。映画で登場人物が死んだ時にも「ぽんっ」と鳴ると、悲しい気持ちもなくなり、ああこれはどこかで同じような文脈を、そうだ、トカトントンだ。私の、幻聴なのかもしれぬ。もう、何も感じなくなりました。

 友人Sが車でぶうんと迎えに来てくれて、S県の少し山の奥の温泉を案内してくれた。Sと私は食堂の座敷にどっかと座り、窓から見える小さな池を眺めた。池には大きな鯉が泳いでいた。黒色のや金色のや赤と白のだんだらのが泳いでいて、見ていると意識レベルが極端に低下した。私達は食事をし、温泉に浸かった。いい温泉だった。風呂から上がったあと、再び食堂の座敷に座って、池の鯉を眺めた。鯉達はどうしたことか、池の端っこにみんな集まってしまって、ひとつの塊のようになった。あれは何をしているんだろうね、と言うと、なんだろうなあ、と言った。隣に座った見知らぬおじいさんも、ほらまた鯉があそこに集まってるよ、なんでだろうねえ、と言った。私は鯉達が何か話し合っているのだと思った。鯉だって時には話し合うべきなのだ。

 Sは「オッケーグーグル、アレクサを起動して」と言った。
 すごくおもしろかった。人工知能を使って人工知能を起動するなんて夢の中で夢を見ているようだ。
 私は人工知能の使い方を知らないので、音楽を聴きたい時はSにお願いする。
「Sさん、ここは、あいみょんだ」
 私はこの時、Sを起動している。
 起動したSは「オッケーグーグル」と言い、オッケーグーグルがアレクサを起動する。
 アレクサが起動したら、今度はアレクサに「あいみょんをかけて」とSが言う。
 するとアレクサがあいみょんをかけるのである。
 なんだか複雑でよくわからないが、よく考えてみると、Sも本当は人工知能なんじゃないかという気がしてくる。

 K寺から夜の街を歩いて帰ってくる時、真っ暗な川の横に、白い彼岸花が咲いていた。
 この世のものではないかのような光景だ、と思いスマホで写真を撮った。
 きっと私は幽霊を見ても、あっ幽霊だ! と思いスマホで写真を撮るんだろうなと思う。
 そういえばこの間、テリー伊藤さんを見た。
 すこしうれしかった。失礼になるので、写真は撮らなかった。

 

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白い彼岸花

 

絶対安静と図書館

 秋の虫がもう鳴いていて、夜はエアコンも必要がなくなった。手乗り扇風機だけを使って頭を冷やして一日中ベッドに寝ている。食事とトイレ以外には寝ている状態、そのほかのあらゆる行動を禁じて体を休ませる最大級の休憩行為『絶対安静』を(おそらく健康な私が)私のために処置する。病気でなくとも、怪我でなくとも、生活の中でへし折れた何かを治すにはすきなものをたらふく食べて安らかにねむることがいちばんのくすりなのだ。ねむりつづけているうちにいつかかならず心が外に開かれる、たのしいことをしたいとか、ねてるばあいじゃないとか、ばーっと外に向かって放射するその瞬間をしっかりつかんだら、そこが完治だ。風呂に入ってあたらしいスニーカーを履いて午後5時でも構わないので、まだ入ったことのないラーメン屋さんに突入して油でべたつくテーブルクロスを感じている。食堂の角にはやはりテレビが置いてあるそれはまるで様式美だった。チャーシュー麺を運んできた頭巾のおかみさんと厨房の奥のたいしょうは無言で向かいあってうつむき合っている。お金を払って表に出たのち、自動販売機で透明な水を買って飲んだ。照りつける太陽の日差しは弱り、もう海を見ないうちに秋が来たのだなあと思う。

「夏らしいこと何もしてないよ」と先輩は言う。

 共感した。夏、そういえばカブトムシ取りに連れて行ってもらえた。車の中で夕暮れの鉄塔の上に立っている少女は必ず消える、という話をしてビーチボーイズを聞いた。よく考えてみると、幸福な、あれは夏のことだった。

 新しい靴で新しい街へ歩いている途中、住宅街の只中にほんの小さな図書館をみつけ、見たことのない場所だから立ち入る。消毒し書架の周囲をブラブラと歩き回る。美術書が充実していて、職員の数も読者の数も驚くほど少ない。ブラッドベリの見たことのない小説が珍しく、Amazonマーケットプレイスでは一円だった。貸し出しが主力の場所ゆえ、雰囲気だけを覚えて出口のガラス戸を押し開けると強い、強い日差しが目に入る景色の全てを白く発光させ酷く眩しくて目を細めた。強い光の中に白いシャツを着た男性の姿があることだけははっきりとわかる。彼はこちらを見ていた。私は目を伏せた。その時に、彼のサンダルが完全に壊れていることに気がついた。靴底を支えている紐の何本かが千切れ、広がり、アスファルトの表面に散らばってずりずりと擦れている。彼は足を怪我しているわけではなく、ただサンダルが完全に壊れているために足を引きずって歩いている。そして彼は私を見ている。彼は強い、白い光に包まれて、背景と半ば同化していてどんな表情をしているのかはわからない。ただ彼がこちらを見ていることだけが、はっきりと分かる。

まとまりのない憶測の理論

 ミスをしない、を突き詰めて考えると、何もしなくなるのではないか。
 戦争で死なない、を目標にするなら、そもそも戦争をしないのが一番で、それは出来た。
 だからミスをしない、を目標にするなら、そもそも仕事をしないのが一番で、それは出来る。
 仕事をしないけれどクビにもなっていない先輩が、遅刻を繰り返し、ミスをしても謝らなくなり、何も改善しようとしなくなったのを見て、もっとも人間を狂わせるのは、自分のことが「どうでもいい」という感覚なのだろうなと思う。
 どうでもいいから、どうでもいい。どう思われてもいいから、どうでもいい。どんな結果でも、どうでもいい。
 そういう意味では、最低限のプライドというのは必要なのだろう。人間には。
 褒められなくてもいいので、自分のことをどうでもいいと思わない程度の、傲慢にならない程度の、ちょっとしたプライド。絶対座標の。中学生の時、考えさせられたみたいな=マラソンを走り切れて偉い=みたいな、自分が自分を乗り越えることによって自分が偉くなる、他者と比較しなくてもいい、そういうプライド。
 
 なんと言えばいいのだろうか、ミスをしないことは大事だけれど、ミスをしないことが行動の中心にある時、結局どこへも向かっていないのだよな。
 誰もシュートしないサッカーみたいなのだよな。援軍の来ない籠城戦みたいな。
 そうしてずっと守りをしていると、やがて守るために守るようになっていくのだよな。
 もう周りに敵がいなくても、ずっとそうしてきたからという理由で、なんらかのバイアスの影響を受けて、守ることが行動の中心になっていくのだよな。
 自分からは全く仕事をしようとしない後輩を見て、ミスをしない、は卑屈に近づいていくことかもしれない、と思う。
 責任を負いたくないから質問すらしなくなり、いつも顔を伏せて話しかけられないようにしていて、挨拶はどんどん小さくなって、無に近づいていった。
 もう誰とも話したく無さそうに、眉間にしわを寄せて、作業場の端っこで同じことをしている。
 だからもう、なんて話しかけたらいいかわからないから、どんどん変な螺旋に沿って下降している気がした。
 そっちにはいかない方がいいよ、って、どう伝えたらいいのかもわからない。

 

 完璧にミスをしない状態、ミスをする可能性がまったくの0%の状態って、死じゃないだろうか。
 生きている限り、どんなにすばらしい人間だって、0.00001%くらいはミスをする可能性があるはずで、本当にミスをしないようにするなら、何もしないようにするなら、死じゃないだろうか。それはネガティブな意味ではなくて。
 ミスをしない的な目標をたてることが私にあって、今日は一日おとなしくしていようなどと考えている時、すごくおだやかで何もない、よい一日になることがある。また、どんなに気を付けていても事故に巻き込まれてしまうことはある。だから、ミスをしないという目標の時には、平均か平均以下のことしか起きないと思う。それはそれでよいことかもしれない。けれど、ミスをしない、を目標にすると、なんだかすごくよくない気がした。
 ミスをしないために何か対策を考えるのは、とても良いことだ。それはミスをしないを目標にするのとは違う。
 ミスをしないを目標にすると、ミスをしないことだけを考えてしまう。それはよくないことのように思われた。
 最後まで全然うまく言葉にできないけれど、今日はそんなことを考えていた。


 明日の目標は「後輩を一回笑わす」にした。
 おそらく何度か失敗するだろう。私はそうしたい。

 

すきな物をすきなだけ食べていいこと

 健康診断は、その前日くらいから自由を削がれた。たとえば何時以降は食べてはいけない、何時以降は飲んではいけない、お風呂に入ってぬいぐるみを抱きしめて早く寝てください。そういうこと。ついでに機を見て検便を、起床時に検温をし、必ず問診票を提出すること。なかなか難しいお話です。それでも義務感と責任を糧に、生きる活動の合間を縫って準備を進め、やっと現場医療機関にて健康診断となるのだけど、あっちの部屋で視力を測り、こっちの部屋で採血をし、などと病院中を歩かされ、結句、レントゲン室前で患者が渋滞を起こし30分も待たされるなどの顛末に、堪忍袋の緒が切れた数名が血圧の急上昇により前後不覚となり緊急処置として自由意志をベイルアウト、精神的ダークマターと一体化し感情を薄め、円環を形成した意思ストリームへ淀んでいく。それは昏い瞳の奥へ沈潜していく容貌である。健康かどうかを確かめに来たのにストレスが溜まって逆に不健康が確定しちゃった! そういう気分を味あわされた衆の筆頭人・ししみはファブリック仕様ソファの上で旧約聖書を開いて心を落ち着かせていた。光あれよ。まだことばも無かった時代の創造の章はすっきりした世界の眺めがすこぶるよかった。

 ロッカーの鍵を返して医療機関の外に出た時、人の行き交う広いロビーを見下ろしながら、ああすきな物をすきなだけ食べていいんだ、と思った。食べていいし、すきなことをやっていいんだ。それは、全然禁止されていない。なのに、どうしてすきなことをやらないの? どうして私は、すきなものを食べるのを、我慢するのだ? なぜ? すきなことを、ほんとうにやってもいいのに。

 何も食べずに霞が関に向かい、東京高等裁判所に入った。それから、犯罪を起こしてしまった人たちを見た。彼・彼女たちは牢屋に入ったり、保釈されたりする。私は学ばなければならないと思っている。どうしてすきなことをやらないの?