真夜中に考えた人間と正しさについての不完全な文章

『集中と人間』

 何かに集中している時、頭の中の声が消える、みたいなことを、漫画や小説のキャラクターが言う。あるいはインタビューで著名人が言う。それはすごく集中している状態で、おそらく良いこととされていると思うけれど、その集中している時間、何かにのめりこんでいる時間は少し人間を辞めていて、たしか北島マヤはテレビを見ている時に周囲の声が聞こえなくなってお母さんだか誰だかにあほ呼ばわりされるのだけれど、セリフとかをすぐに覚えてしまってすごい、みたいな話があったと思うのだけれど、その周囲の人間の声も届かない遠い場所の経験を、マヤと同じでなくとも、誰しもが何らかの形ですでに経験しているような気がしていて、だからそれはそれほど大したことではないのかもしれなくて、小さな子供なんかはテレビを見るとき口をぽかんと開けて、声をかけてもやっぱり何も聞いていない、という状態になっているところを見たことがあるし、たしか春樹さんは空白を得るために走る、という意味のことを言っていたように思うし、心の声や思考というというものは、不自由なもので、逃れたいもので、猫が揺れる猫じゃらしを見つめている時の空白と、人間が何かに集中している時の空白は、きっと同じもので、だからとても集中している時間、人間は少し人間を辞めていて、やっぱり人間を辞めている状態に憧れているような気がして、酒を飲んだり、薬物を注射したり、座禅を組んで瞑想したりすることは、人間が人間性から逃れるためなんじゃないのか、修行で得た悟りと薬物で得た悟りは同等のものだ、みたいな言葉を読んだことがあって、それなら薬物で人間を辞めるのと同様に修行で人間を辞めるということはあり得るのではないかと思い、もし人間が人間以外を目指しているなら、やっぱり人間らしさという言葉は弱さと同義になってしまって、人間だものという言葉は失敗と同義になってしまって、人間を肯定できなくなった時、人間が生きているだけでめっちゃつらいということになってしまうから、とりあえず人間をやっている私は、人間をみじめな感じにしたくないなと思い、人間の上位カテゴリの猿、猿の上位カテゴリの哺乳類、哺乳類の上位カテゴリの日本に住んでいる生物、日本に住んでいる生物の上位カテゴリの地球に住んでいる生物、地球に住んでいる生物の上位カテゴリの宇宙に住んでいる生物、宇宙に住んでいる生物の上位カテゴリの創造主の創造物、創造主の創造物の上位カテゴリのビッグバンに帰属することにしてみると、お金持ちと貧乏人は同価値で、犬と猫は同価値で、かわいいとぶさいくは同価値で、100億円と1円は同価値で、さらに、南極のペンギンと小鉢にかかっているサランラップレイバンのサングラスと200年前に亡くなった侍と歌と第二ボタンと白菜の煮びたしとが同価値で、この宇宙のすべての概念がビッグバンに帰属していることが分かり、ビッグバンありがとうもビッグバンばかやろうもなく、私の部屋に存在する全ての物から名前が無くなって、すべてがビッグバンになってしまい、たぶん動物たちはこういう感じで、すべてのものがなんかそこに存在しているものとして認識しているだけのことで、それはビッグバンの最初から全部空白なんじゃないか、ということが分かり、ということを悟り、悟ったところで特に何の感情も湧いてこなかったので、ビッグバンのずうっと下の下位ジャンルの私に戻ってみると、人間らしさ、あるいは人間だもの、という言葉は結構相対的な価値観だなと考えられ、それはそもそも人間という言葉が私と他者を包含しているからであり、だとするなら人間の絶対的な価値観とはどのようなものだろうと考えた時、絶対的価値観の基準は常に私だから、人間より下の下位ジャンルの私自身こそが細分化不可能な一番下の階層にあって、つまりそれ以上大きくできない一番大きいくくりがビッグバンで、これ以上小さくできない一番小さいくくりが私で、私はこの世界にたったひとりしかいないので、人間としてよりも、私は私として存在していればいいのか、と考えた時、部屋の中にある全てのものに量産品なんてひとつもなくなってしまった。私がただひとりの私として存在しているように、この目の前の机の上にあるunoの化粧水もただひとつの化粧水として存在しているのか。巨大なビッグバンの空白の一番端っこの概念のこの目の前の個のunoの化粧水はビッグバンの下に兄弟で、すべては繋がっていた。

 

『正しさの性質』

 ここ2年ほど、正しさについて考える機会があったので、正しさって何かなとたまに考える。
 それは主に次のような問いかけになっていた。
「この世の中に正しいことってあるんだろうか?」
 例えば誰かが落とし物をしたとき、それを拾って持ち主に届けることは正しいだろうか。お財布を落とした人に届けたら、きっと正しいだろう。でも煙草の吸殻を持ち主に届けたら、倫理的には正しくても持ち主は怒るだろう。その時、持ち主にとって私の行動は正しくないということになる。というのは極端な例にしても、正しい行動をしたつもりが、結果的に正しくなかったということはたまにある事実だった。
 だからこの世の中に完璧に正しい事実なんてないんじゃないか、ケースバイケースで、と考えていたのだけれど、今日になってようやく完全に正しそうな例をみつけた。例をみつけた、と胸を張って言えるようなことではないんだけれど、少なくとも誰が見ても正しいだろうと思われることだ。それはすごく単純なことで「1+1=2」だ。
「1+1=2」だけはこの世で完全に正しいと思われた。「1+1=2」が本気で間違っているという人はおそらくいないと思う。だから、「1+1=2」を構成している要素について考えれば、正しさをある程度分解できるはずだ。

 正しさには、問いが不可欠だということ。
 正しさというのは人間が考えたただのルールなので、自然界には正しさというものがない。猫がねずみをとって食べることは自然なことだし、猫同士で喧嘩するのは縄張りや力関係をはっきりさせるための行いで、自然なことだった。
 なので正しさについて考えるときには常に人間の行いについて考えることになるのだけれど、正しさという概念を形づくっているマナーや作法やルールや倫理や法律というのは、人間が長い時間をかけて「こうしたらみんな平和に暮らせるんじゃないの」という決め事なだけなので不完全で、社会がどういう感じかで結構変わっており、昔はハンムラビ法典でOKだったけど今はハンムラビ法典あんまりよくないなあということになっていて、常に絶対ではないので、都度なにが正しいのか? と考えなければならない。
 それはつまり「1+1=?」ということなのだよな。
 自然界に正しさは存在しないということは、正しさという概念は不自然だ。
 なのでそもそも正しいかどうかを問わなければ、正しさというものが存在できないことになる。
 正しいのか? という問いがまず最初にあって、はじめて正しさが生まれる。
 おれ生まれてからずっと奴隷だけど、奴隷って間違ってない? みたいなことだと思う。

 正しさとは、双方向的であるということ。
「1+1=2」が成立するためには、左辺と右辺が等号で結ばれていなければ正しいとは言えない。
「1+1=0」は間違っているし、実際に間違っていると感じる。
 お財布の例で考えてみると、
「私が財布を届けてうれしい+他者が財布を届けられてうれしい=ふたりともうれしい」
 という状態は正しいように感じる。
 ここで問題になるのは、等号で結ばれていて計算があっていればどんな式でも正しいのか、ということだ。
 たとえば「1+1+(-1)=1」は正しいのだろうか?
 私は脳みそがスポンジで出来ているので、考えてみたけどよくわからなかった。
「私が財布を届けて嬉しい+他者が財布を届けられて嬉しい(でも財布の中身が誰かに抜き取られて悲しい)=私だけうれしい」
 計算は合っているけれど正しいかと言われると別に正しくもないように感じられた。
「1+1=2」は完全に正しいと思うけれどそれ以外が正しいかどうかはわからない。

 正しさには、私以外の他者が必要だということ。
 ここでは正しさは人間が生み出した人間だけに適用されるものと考えているので、正しさには私以外の客観的な視点が必要になる。
 これは裁判について考えてもそうだけれど、例えば私が私の冷蔵庫をトンカチで破壊したとして、私が私を裁判にかけることはできない。
 私は私から盗むこともできない。私は私を喜ばせることができるし絶対評価を下すことはできるけれど、私が私を常に喜ばせることが正しいとは言えない(間違っているとも言えない)し、私の絶対評価は変動するので「1+1=2」のように常に正しいとも言えないように感じる。
 正しさは私が所属している社会のルールを参照して私が判断することであり、また他者が判断することでもあり、そのバランスでもある。
 もしこの世界に私ひとりしか人間がいないなら、私がルールになってしまうので、そこには正しさというものはない。もし私がひとりの世界で正しさを感じることがあるなら、それは私が今まで属していた社会の正しさであり、私の正しさではないのだと思う。
 狼に育てられた少女は自分を狼の群れの一員だと思って、狼の正しさで行動する。
 どこまでいっても正しさは不安定で、人間という大きな集団のものなので、ひとりで正しいとか、ひとりで間違うとかいうことは無い。
 これは「1+0=1」ということで、計算は合っているし、自然だけれど、正しい感じがしない。そりゃそうだよひとりはひとりだよという感じがする。
 言わずもがなのことだけれどひとりでいることがダメだとかそういうことではない。正しさという言葉はひとりきりの状態の人間には適用することができないのではないかということだ。
 ひとりでいるときくらいぬいぐるみと会話してもいいということだ。 
  
 ということで「1+1=2」が正しいということを書いてきました。
 この考えが正しいかどうかは、あんまり興味がないのではあるが。